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藩札制度——かつて日本で異なる役割の通貨が共存していた

2026年10月6日 最終更新日時 : 2026年10月6日 mao615

アイキャッチ画像にもありますが、江戸幕府は一度、この藩札を全国的に禁止しました。ところが、わずか23年後に再び認めています。一体なぜでしょうか?今回の答えは、ちょっと複雑ですが、一応、この記事の中ほどに用意しています。

江戸時代には、日本には幕府が発行する金・銀・銭の貨幣がありました。

それなのに、各地の藩は自ら紙のお金を発行しました。

それが「藩札」です。

現存する最古の藩札は、寛文元年(1661年)に福井藩が発行したものです。その後、藩札は各地へ広がり、幕末までには約8割の藩が発行を経験したとされています。

なぜ、幕府のお金があるのに、各藩はわざわざ自分たちのお金をつくったのでしょうか。

そして、なぜ人々は、ただの紙である藩札を「お金」として受け取ったのでしょうか。

今回は、かつて日本各地で使われていた「藩札」の歴史をたどってみます。

藩札制度とは

藩札とは、江戸時代に諸藩が主として領内で流通させた紙幣です。

藩が幕府の金銀銭貨などの正貨や、米など価値のあるものとの交換を保証し、領内で通用させました。藩内外の有力商人が発行を請け負うこともありました。

藩札の発行が広がったのは17世紀後半からです。

前述の福井藩札には、額面だけでなく、発行業務を請け負った商人の名前まで記されています。

その後、藩札は西日本を中心に広がっていきます。

このように藩札は、一部の藩だけが試した珍しい仕組みではなく、全国各地へ広がった「お金」だったのです。

当時の幕藩体制と「お金」の流れ

江戸時代の幕府の貨幣と藩札がどのように使い分けられ、そして幕府は藩札に対して行った政策の顛末を説明します。アイキャッチ画像の答えは、この章にありますよ。

幕府の正規貨幣と藩札は、どう使い分けられたのか

江戸時代には、幕府が発行する金貨・銀貨・銭貨が全国通貨として存在していました。それなのに、なぜ各藩は、幕府のお金とは別に、藩札を必要としたのでしょうか。

大きな理由の一つが、領内の貨幣不足を補うことでした。

経済が発展し、商品を売り買いする機会が増えても、必要な貨幣が全国の地域へ均等に行き渡るわけではありません。

商品があっても、それを売り買いするための「お金」が不足すれば、取引は滞ってしまいます。

そこで各藩は藩札を発行し、領内での決済に利用しました。

日本銀行金融研究所は、藩札の主な目的を、領内への流動性の供給と、幕府が発行した正貨を藩庫へ吸収することと整理しています。

藩札には、もう一つ重要な役割がありました。

藩外との取引などに必要な正貨を確保することです。

領内では藩札を流通させる一方、幕府の金銀貨などの正貨を藩側に集める。そうすることで、藩外との取引などに必要となる正貨を確保することができました。

さらに、藩札を地域産業の振興に結びつけた藩もありました。

領内の特産品を藩札で買い上げ、それを藩外で販売して正貨を獲得する。得られた正貨を、藩札との交換に備えて蓄える仕組みもみられました。

生産者へ藩札を貸し付け、生産そのものを促す「国産会所」「産物会所」などの取り組みも行われています。

つまり藩札は、単に「幕府貨幣の代わり」として使われたわけではありません。領内にお金を行き渡らせ、地域の産業を動かし、藩外との取引に必要な正貨を確保する、それぞれの役割を担いながら、幕府貨幣と藩札は地域経済のなかで使われていたのです。

今までに説明した、幕府貨幣と藩札、そして特産品の売買の流通を、AIがまとめてくれました。

このように、江戸時代のお金の世界は、現在の「円」だけを使う私たちの生活よりも複雑でした。しかも、藩札の仕組みや通用方法は藩によって異なります。多くの藩では領内で藩札を使わせ、札会所などで正貨との交換を行いましたが、交換できる金額や条件に制限を設けた例もありました。

こうして藩札は、それぞれの地域の事情に応じながら、地域経済を支える「お金」として広がっていったのです。

幕府はなぜ「藩札」を禁止し、再び認めたのか

しかし、幕府は、その藩札を一度、全国的に禁止します。

理由は、幕府が発行する金貨・銀貨・銭貨を全国に統一して流通させようとしていたからでした。

元禄8年(1695年)から行われた元禄の改鋳では、金銀貨の品位を下げる一方で、貨幣の流通量を増やしました。そして、新たに増やした幕府貨幣を全国へ普及させるため、宝永4年(1707年)、幕府は藩札の使用を禁止します。

この時点ですでに、40以上の藩が藩札を発行していたといわれています。

ところが、その後の正徳・享保期には、今度は金銀貨の品位を引き上げる改鋳が行われました。その結果、貨幣の流通量が大きく減少し、貨幣不足が深刻化します。こうした通貨収縮のなかで、地域経済や藩財政にも大きな影響が及びました。

こうした状況により、幕府は享保15年(1730年)、方針を転換せざるを得なくなります。

以前から藩札を発行していた藩について、一定の条件と期限を設け、藩札の発行を再び認めたのです。禁止から、わずか23年後のことでした。

これで藩札をめぐる幕府の政策が定まったわけではなく、その後も幕府は期限を延長したり、新規発行や再発行を規制したりと、藩札を抑える政策を繰り返しました。しかし、十分な実効性を持たせることはできませんでした。

幕府貨幣だけでは、地域に必要な「お金」を十分に行き渡らせることが難しく、藩札はすでに地域経済を回すための重要な役割を担っていたからです。

藩札は、もはや一部の藩だけが使う特殊な「お金」ではありませんでした。

地域社会に必要とされた「お金」は、当時の中央権力である幕府でさえ、簡単には排除することができなかったのです。

ここで、アイキャッチ画像の問題の答えですが、
正解:各藩がそれぞれの領内の経済を回すためには、幕府貨幣だけでは不十分だったから。
となります。このように、藩札は、当時の中央権力である幕府にさえ排除できないほどに、地域経済に根付いていたのです。

藩札にはどのような種類があったのか

藩札は、現在の紙幣以上に多様でした。

金との交換を基準とした金札、銀の銀札、銭の銭札。

さらに、米との交換を定めた米札などもありました。

驚くことに、美濃加納藩では、地域の特産品だった傘やその材料を単位とする藩札まで発行されています。

幕末までには、全国約300藩のうち約8割の藩が藩札を発行したとされています。また、確認されている藩札などは1,694種類にのぼります。

つまり藩札は、全国どこでも同じ形・同じ仕組みだったわけではありません。

それぞれの地域の経済や産業を反映した、実に多様な「お金」だったのです。

藩札の「価値」は何が支えていたのか

ここで一つ、不思議なことがあります。紙そのものには、金や銀のような価値はありません。

では、なぜ人々は、
「この紙には銀○匁の価値がある」
と信じて、商品との交換に応じたのでしょうか。

一つは、藩が正貨などとの交換を保証していたからです。実際に各地には札会所が設けられ、藩札と正貨の交換が行われました。

しかし、それだけではありません。日本銀行金融研究所の研究では、藩札の流通を左右した重要な要素として、「貨幣として皆が受け取ってくれる」という領民からの信頼が指摘されています。

「この札なら、次の人も受け取ってくれる」
その信用があるからこそ、一枚の紙が「お金」として人から人へ渡っていったのです。

安定して流通した藩札、信用を失った藩札

では、その信用を守るために、何が必要だったのでしょうか。

各地の藩札を調べた日本銀行金融研究所の研究からは、十分な交換準備を確保したり、有力商人の信用を利用したり、藩札発行を通常の藩財政から切り離したりするなど、各藩が価値を維持するためにさまざまな工夫をしていたことが分かります。

一方、凶作などで財政が苦しくなり、その穴埋めとして藩札を大量に発行すれば、正貨との交換に不安が生じます。実際に藩札の価値が下がり、人々が正貨への交換を求める「札騒動」が起きた地域もありました。

この違いを次の図のように、AIがまとめてくれました。

藩札の歴史を見ると、

「藩札だからうまくいった」
「藩札だから失敗した」

とは一概には言えません。

円滑に流通した事例もあれば、価値を大きく落とした事例もありました。

重要だったのは、その札への信用をどう維持するかだったのです。

藩札の終焉

長く各地で使われた藩札にも、終わりの時が訪れます。

大きな転換点となったのが、明治維新でした。

明治4年(1871年)、廃藩置県によって藩そのものが廃止されます。

明治政府が旧藩の債務を調査したところ、届け出られた藩札発行高は3,909万4千円に達しました。

そして同じ明治4年5月、政府は新貨条例を制定します。

新しい貨幣単位は、

「円」

でした。

1円=100銭、1銭=10厘という十進法を採用し、当初は1円の価値を純金1.5グラムと定めました。

幕末から明治初期には、幕府貨幣、藩札、新政府の紙幣など、さまざまな貨幣が流通し、偽造や増発も重なって通貨制度が混乱していました。明治政府はそこから、近代国家として統一された貨幣制度を築いていきます。

つまり藩札が姿を消したのは、単に
「藩札が失敗したから」
などという短絡的なものではありません。

藩そのものがなくなり、日本が一つの近代国家へ変わっていく中で、貨幣もまた一つの「円」へ統一されていったのです。

藩札がイマに教えてくれること

藩札の歴史を振り返ると、江戸時代の人々もまた、

地域に必要なお金をどう行き渡らせるのか。
紙のお金の価値をどう守るのか。
地域の産業とお金をどう結びつけるのか。

という問題に向き合っていたことが分かります。

その答えは、藩によって違いました。

信用を守りながら長く使われた藩札もあれば、発行しすぎて信用を失った藩札もありました。

そして明治日本は、それまで各地に存在したさまざまな貨幣を整理し、全国を一つの「円」で結ぶ道を選びました。

それから150年以上。

私たちにとって「円」は、日々の生活を支える、かけがえのない存在になりました。

しかし、その「円」は現在、日本国内だけで使われるお金ではありません。海外の外国為替市場でも日々売買され、その価値は日本国内の事情だけで決まるものではなくなっています。

昨今の燃料費や資源価格の高騰を見ても、海外で起きた戦争や輸出規制、国際的な資源価格の変動などが、為替を含むさまざまな経路を通じて、私たちの暮らしに影響を及ぼしています。

近代国家になる過程で、世界へと開かれていった「円」。

それは、日本が世界とつながり、経済を発展させていくうえで、大きな役割を果たしてきました。

では――。

世界とつながった「円」は、現在の私たちの暮らしにどのような恩恵をもたらし、同時にどのような影響を受けるようになったのでしょうか。

次回は「ほどきたいイマ」として、

「国際通貨『円』のジレンマ」

を取り上げていきます。

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