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「扶持」という思想──日本人は「扶ける」をどのように受け継いできたのか?

2026年10月6日 最終更新日時 : 2026年10月6日 mao615

タイトルにもアイキャッチ画像にもありますが、

「扶ける」

さて、この漢字のふりがなは何と読むでしょうか。

正解は下まで読めばわかりますが…。

ヒントとして。

「扶」という字には「手を添えて支える」という意味があります。それから、現代でも「扶養」という言葉がありますね。扶養控除の対象となる家族は、文字通り「扶けないと養えない」のです。さあ、わかったでしょうか?

ところで、その「手を添えて支える」という意味が込められた言葉の一つに、「扶持(ふち)」というものがあります。「扶持米」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんね。武士階級の人たちが自身の家来や奉公人を養うために支給したお米等のことです。

戦国時代の終わり頃から江戸時代にかけて、扶持は主として武士や奉公人に対する給与の一種として制度化されていきます。言わば、武士社会でも少し下層階級の人たちの給料のようなものになっていきました。

ただ、扶持は単なる給料ではありません。人が生活を続けられるように、食べ物や金銭を継続して与え、その命と暮らしを支えることを意味しました。

その根底にあったのは、

――人を働かせるなら、その人が生きていけるだけの糧を保障する。

という考え方でした。

そこには、「働けなくなった人を支え、命をつなぐ」という、日本人が古くから大切にしてきた思想が息づいていたのです。

こちらの記事では、米によって人の生活を支えた「扶持」という仕組みを通して、日本人が「扶ける」という思想をどのように受け継いできたのかを考えます。

扶持とは何か

まずは「扶持」の語源から由来、そして誰に与えられ、よく混同される「俸禄」との違いを説明します。

扶持の語源

「扶持」という言葉は、本来、力の弱い者を助け、支えることを意味しました。

中世には、金品を与えて人を援助することや、主君が家臣・奉公人の生活を支えることを表す言葉として使われるようになります。

戦国時代末期以降に、主として下級家臣などに支給される給与を意味する制度用語として定着しますが、それはまた後程説明します。

扶持米とは

一方、江戸時代に制度化された扶持米は、主として幕府や藩に仕える者へ支給された、具体的な給与の一部でした。

北九州市立中央図書館の調査では、江戸時代の標準で成人一人が一日に必要とするとされた玄米を五合と見積もり、これを「一人扶持」としました。ですので、一人扶持を一日五合、一か月一斗五升、一年間一石八斗、米俵にしておよそ五俵と説明しています。重量にすると、当時の米の種類や換算方法によって差がありますが、1俵60㎏とすると、1年間支給されるお米は、おおむね玄米約300キログラム前後となるでしょうか。

この「人の数で給与を表す」という仕組みは、現代の給料とは大きく異なります。例えば「三人扶持」であれば、本人だけでなく、家族や従者などを含めた三人分の食料に相当する米が支給されることになります。

すなわち扶持米は、役職の価値だけでなく、その人に連なる生活者の人数にも支給されていたのです。

誰に与えられたのか

扶持米の主な支給対象は、幕府や藩に仕える家臣や奉公人でした。

具体的には、

●下級武士
●足軽
●中間や小者
●各種の役人
●城や蔵、門などの番人
●医師や儒者、絵師、職人
●寺社に仕える者
●特定の御用を担う町人や村役人

などです。

高禄の武士には、一定の土地から年貢を得る権利である「知行」が与えられることがありました。

一方、土地を直接支配しない武士や下級奉公人には、幕府・藩の蔵から米を支給する「蔵米取」が多く、そのなかに扶持米取がありました。

また、扶持は本来の給与だけでなく、

●隠居した家臣
●家臣の遺族
●御用を解かれた者
●特別な技能を持つ者
●藩が保護する必要を認めた者

などに与えられることもありました。

岡山藩には、家臣に切米十八俵と三人扶持を与えた文化15年(1818年)の「遺扶持切米」の史料が残っています。扶持米は一人一年分の食料を目安とし、毎月支給されていました。

このような事例から、扶持が単なる成果報酬ではなく、家臣とその家を存続させるための基礎給として機能していたことが分かります。


俸禄との違い

扶持と俸禄は混同されることがありますが、本来は少し意味が異なります。
厳密には、俸禄は武士や役人が主君から受け取る給与全体を表す言葉です。

俸禄とは、武士や役人が主君から受け取る給与全体を指す言葉です。扶持米は、その支給方法の一つでした。俸禄の支給方法を、AIが図にまとめてくれました。

扶持米の大きな特徴は、石高や役職だけではなく、何人を養えるかという単位で示されたことです。

簡単に言うと、俸禄が身分を家格を示すのに対して、扶持米は生活を保障する意味合いを持っていたのです。

「扶持」がどのように生まれ制度化されたのか

「扶持」という概念が、どのように生まれ、制度化されていった過程をみていきます。

戦国時代――「扶持」が言葉だけだった時代

戦国大名にとって、家臣や領民は単なる労働力ではありませんでした。戦を行うにも、城を築くにも、道路や堤防を整えるにも、人が必要です。しかし、人は命令するだけでは動き続けません。家臣には食料が必要であり、動員された領民にも、労働中の生活を維持する糧が必要でした。

中世の主従関係は、「御恩」と「奉公」によって説明されます。家臣は主君に奉公し、主君は土地や給与を与えて家臣の生活を保障します。この関係が崩れれば、家臣は離反し、領民は逃散し、領国そのものが立ち行かなくなります。

ところが、家臣の家臣、つまり家臣の配下の足軽や奉公人はその対象ではありませんでした。戦の度に駆り出される人たちには、戦の準備金は支給されず、兵糧米のみ支給されるだけでした。これでは、このような人たちの不満は溜まる一方です。そこで、当時の領主たちが戦の度に黙認した、悪しき慣習があります。

それが、「乱妨取り」、通称「乱取り」です。つまり、攻め込んで勝ち取った領地の物品を、下級武士達が略奪することを許したのです。しかも、物品だけでなく女性や子ども等の人まで略奪することが許されるケースもありました。

この乱取りについては、義将として知られるあの上杉謙信公も、攻め込んだ地域での乱取りを黙認したとされています。

つまり、戦国時代の群雄たちの領国経営には、扶持という概念はほとんど無く、ただ単に人を助けるという言葉としての「扶持」があるだけでした。

織田信長の一石――「扶持」の制度に近づいた「兵農分離」の視点

そのような中、一人の人物が、この悪しき慣習に一石を投じます。

その人物こそ、織田信長公です。

信長公と聞くと、「焼き討ち」や「撫で斬り」といった苛烈なイメージがありますが、物乞いの男性を憐れみ、木綿を与えたという「山中の猿」の逸話にもあるように、庶民や働くことのできない人々へ目を向けた一面も、一級史料である『信長公記』に記されています。

より重要なのは、信長公が軍勢の統制を進め、進軍先での乱妨狼藉や放火などを禁じる禁制を各地に発給したことです。

前述のように、戦国時代の軍勢は、しばしば現地で食料や物資を調達し、勝ち取った土地から略奪することで自らを養っていました。しかし、そのような軍勢を領主の統制下に置くためには、兵糧を準備し、働きに応じた報酬を与える必要があります。

織田家の軍勢は、その圧倒的な経済力を背景に、家臣だけでなく、足軽・雑兵といった下級武士にまで俸禄を与えられました。これによって、「下級武士は自ら奪って生きる」という戦国時代の常識から、「主君は軍勢全体を養う責務がある」という発想の転換を、ここにみることができます。

それは、後に確立される兵農分離や扶持制度そのものではありません。しかし、人を動員する者が、その働きに報い、生活の糧を用意するという意味では、「扶持」が制度へ近づく一つの過程だったと考えられます。

信長公は、本能寺の変に倒れますが、この「扶持」の発端となる構想は潰えず、次代の天下人となる人物によって制度化されていくことになります。

徳川家康の五か国総検地――「扶持」を制度へ

天正17年から18年にかけて、徳川家康公はご自身の領土である三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国で総検地を行いました。その際、領内の村々に示されたのが、七か条からなる「徳川家康定書」、いわゆる「七箇条定書」です。

この定書で、現存する史料では、賦役に従事する人足へ「扶持米」を支給することが、ここではっきりと文章で確認できます。検地のために人足を出した場合には、一日につき扶持米六合を与え、馬を出した場合には大豆一升を支給すること、さらに賦役に応じて年貢を差し引くことなどが定められていたとされます。

これは、後世の一人扶持で一般的となる一日五合よりも多い量ですが、それは戦時下での賦役という危険を伴う任務によるものでしょう。

家康公はさらに踏み込んで、定書の中に

●一日あたりの食料の明示
●労働分を租税から差し引く
●自然災害発生などによる収穫の見直し

までも記載し、とどめに、

●これ以外に役人たちが賦役や税を取り立てようとしたら、それは曲事(不正)であるから、ただちに家康に訴え出るように

と念を押しています。役人たちは震えあがったことでしょう。

幼い頃より戦国の辛酸を嘗め尽くした、苦労人の領主であった家康公は、人の労苦に敏感でした。年貢を納めた上で、さらに賦役にも従事しなければならない領民の過酷な負担に、一つの筋道を立てたのです。

領民の中には、「自分たちの苦労を理解してくれる殿様」という安心感を抱いた人も少なくなかったでしょう。

この想いは、年貢を軽くするよりも、領民を高揚させたと考えられます。現に、これ以降の五か国は抜群の豊かさを誇るようになります。その後、家康公は関東移封により、この五か国の地を離れることになりますが、一説には、家康公の高い求心力を警戒した豊臣政権が、領国との結び付きを断ち切る意図もあったと考える見方もあります。

この七箇条定書によって、賦役に従事する人々へ扶持米を支給する仕組みが、文書として明確に示されました。

まだ武士全体を支える後の扶持制度とは異なりますが、「働きに応じて生活の糧を保障する」という考え方は、ここで制度として姿を現します。

やがて徳川家康公が江戸幕府を開くと、この考え方は武士階級を支える扶持制度へと発展し、日本社会の基盤の一つとなっていくのです。

扶持という思想が江戸時代に根付いた理由

江戸時代になると、扶持米は幕府や諸藩の給与制度として定着しました。戦国時代の扶持が、戦時や特定の奉公に対する臨時的な給付を含んでいたのに対し、江戸時代の扶持米は、月ごとに継続して支給される日常的な給与となります。

一人扶持を一日五合とし、人数と日数によって支給量を算出する仕組みは、非常に合理的でした。役職の変更、出仕日数、家族や従者の人数などに応じて、支給量を増減できたからです。

また、一日五合という量は、一人分としては多過ぎますよね。米は当時としては高級品でしたから、余った米を売って、他の日用品に買い替えることもできました。ある意味、当時の米は「通貨」としての側面も持っており、文字通り武士達の生活を支えるものでした。

さらに、扶持米は家臣への主たる給与だけでなく、役職に伴う手当、特定の任務に対する加給、遺族や隠居者への給付などにも使われました。「扶持」という言葉は、単なる米の量を超えて、幕府や藩が、その人と家の生活を支える責任を負っていることを表すようになったのです。

武士の扶持――主従関係を支えた扶持米

武士にとって、俸禄は単なる給料ではありませんでした。主君に忠誠を尽くす代わりに、主君は家臣へ知行や俸禄を与え、その身分と役割を保障します。これは「御恩と奉公」という武士社会の根幹をなす主従関係を表すものであり、家格や格式を示す意味も持っていました。

その一方で、扶持米は家臣本人やその家族・奉公人などの生活を支えるための給与でした。「五人扶持」「十人扶持」といった呼び方は、何人分の生活を保障する扶持であるかを表しています。主君が家臣に奉公を求める以上、その生活を支える責任も負うという考え方が、扶持米には込められていました。

もっとも、扶持米だけで生活のすべてを賄えたわけではありません。扶持米は食料を中心とした最低限の生活を支えるものであり、住居や衣服、燃料、冠婚葬祭などの費用は、知行や俸禄など他の収入によって補われていました。

もちろん、この制度は主に武士階級を対象としたものです。江戸時代の武士は総人口の約5~7%とされますが、その家族や奉公人まで含めれば、扶持によって生活を支えていた人々はさらに多く、当時の人口の10%程度(当時だと200~300万人)賄う必要がありました。

そのため、各藩にとって扶持米の支給は大きな財政負担でもありました。幕末には、度重なる飢饉や災害、軍備の増強など様々な要因が重なって多くの藩が財政難に陥りますが、武士への俸禄や扶持の維持も、その一因となっていました。

病気・隠居・遺族への扶持――家の暮らしを支える

扶持による支えは、現役で奉公する者だけに限られませんでした。病気や怪我で職務を離れた者への支給が続く例や、隠居者・遺族へ給付される例もありました。

ただし、隠居後の生活は、家督を継いだ後継者が支えることが基本でした。主君からの給付は、勤続や功績などに応じて行われる場合があり、誰もが一律に受けられるものではありませんでした。

その根底にあったのは、主従関係の中で、家臣本人だけでなく、その家の存続も支えるという考え方です。身分や支給条件による限界はありましたが、役目を離れたあとにも暮らしが続くことに、扶持は目を向けていたのです。

明治以降の扶持思想――米から金銭へ

明治維新によって幕藩体制が解体されると、武士に支給されていた知行や扶持米は姿を消しました。版籍奉還、廃藩置県、秩禄処分を経て、主君と家臣という関係に基づく生活保障も、その役目を終えます。

しかし、「国や組織のために尽くした者や、その遺族の生活を支える」という考え方まで失われたわけではありません。

その思想は、軍人や官吏、警察官、教員などを対象とした「恩給制度」へと受け継がれていきました。支給の根拠は主従関係から国家への勤務へと変わりましたが、長年の奉仕に報いるという理念は、なお生き続けていたのです。

もちろん、扶持米と恩給は同じ制度ではありません。扶持米は主君と家臣の関係を前提とし、恩給は国家への勤務や功労を基礎とする制度です。

しかし、その一方で、「長年社会に尽くした人や、その家族の生活を支える」という思想は、時代とともに形を変えながら受け継がれてきました。

その名残は、現在の遺族年金にも見ることができます。制度の仕組みは大きく変わりましたが、働き手を失った家族の生活を社会が支えるという考え方には、扶持から恩給へ、そして現代へと続く、日本人の「扶ける」思想の面影が残されているのです。

扶持思想が日本にもたらしたもの

扶持思想は、日本にもたらしたものは何か、その肯定的側面と否定的側面を評価していきます。

肯定的側面

●江戸幕府の安定化を支える一因に

この扶持米制度によって、当時の日本の支配階級であった武士の生活が保障されました。このことで、それぞれの身分関係も安定し、江戸時代という260年におよぶ幕藩体制を支える一因になったと評価できます。

●忠節・勤勉に報いる文化の醸成

扶持米は武士として、幕府あるいは各藩で精勤している限り、支給され続けました。これによって、長年、誠実に奉公した忠節へ報いるという考え方が定着していき、わが国での「精勤・勤勉・誠実・実直」を美徳とする文化が醸成されていったと考えられます。

●働けなくなった人を支える思想の育成

前述の通り、扶持米は病気や障がいあるいは高齢によって働けなくなった武士、さらには亡くなった後の遺族にまで支給されるケースもありました。これにより、社会的弱者を労わり、支える発想が社会に自然に育まれていったと考えられます。

●家族まで守るという責任感へ

扶持米は支給対象の武士だけでなく、その家族や奉公人の分まで支給されました。これは「一家を支える」という日本的な責任感に影響した可能性があります。

●次世代の恩給制度・社会保障制度へ継承された

明治維新によって扶持米制度は廃止されましたが、その後の恩給制度によって、その精神は受け継がれました。そして、現代の年金制度の成立にも強い影響をおよぼすことになります。扶持米制度によって醸成された「奉仕した者に報いる」という思想は、形を変えながらも、時代を超えて継承されていると言っても過言ではないでしょう。

否定的側面

●財政負担の増大

江戸幕府は泰平な世が260年も続きました。その間に、人口は約3倍に膨れ上がっていきます。そうなると、扶持米を支給する人の人数も比例して増えていきます。前述の様に、幕末にはどの藩も財政危機に陥っており、このことも討幕運動の遠因になった可能性があります。

●身分制度の固定化

扶持は武士という当時の特権階級を対象とした制度でした。そのため、能力より身分が重視される文化となり、身分制度や序列によって社会が固定化する側面がありました。同じ働きでも家格によって扶持にも差があり、不公平と評価されても仕方のない制度でもありました。

●扶持米への依存を強める

武士は扶持米によって生活が保障される反面、武士である以上、努力しなくても最低限の生活ができることになります。このことによって、武士と言う身分に依存し、また上昇志向を失う風潮にもつながったと考えられます。

扶持から考えるイマ

扶持米は、現代の年金制度そのものではありません。身分制度を前提とした武士への給与であり、その仕組みも現代の社会保障とは大きく異なります。

しかし、「働く人や、その家族の生活を社会が支える」という思想は、時代とともに形を変えながら受け継がれてきました。その精神は、恩給制度を経て、現代の社会保障制度にも受け継がれていると言えるでしょう。

和むすび市庭は、この「扶ける」という思想こそ、日本人が長く育んできた大切な文化の一つだと考えています。

ところが、その思想を現代で最も大きく担ってきた年金制度は、少子高齢化や人口減少などにより、いま大きな転換期を迎えています。

制度は変わっても、「働けなくなった人を、誰が、どのように支えるのか」という問いは、今なお私たちの前にあります。

次の記事では、

「崩れゆく年金制度」

をテーマに、日本の社会保障制度がなぜ持続困難な状況に近づいているのか、その背景を考えていきます。

さて、ここで問いの答えをあらためて。

答えは、「扶(たす)ける」でした。

ここまで読んでいただいたあなたに、感謝と共に一つの問いを。

あなたが働けなくなったとき、誰があなたの生活を支えてくれるでしょうか。

そして、あなたは誰の暮らしを支えているでしょうか。

かつての日本人は、その支えを「扶持」という言葉で表しました。

制度の形が変わった現代において、私たちは「扶ける」という思想を、どのような形で次の時代へ受け継いでいくべきなのでしょうか。

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